フロンティアみはらのメンバー佐谷力さんが最優秀論文を受賞しました。内容を拝見すると、すべての家庭・PTA・子ども会・教育関係者の方々、そして子どもを思う方々に是非とも読んで頂きたいものです。
論文全文のTXTをダウンロードできますshituke.lzh(約9kb)

●懸賞論文「子供の躾(しつけ)を考える」最優秀作品全文の紹介

 少年の凶悪犯罪や薬物乱用事件が続発し、いじめや不登校といった問題が後を絶ちません。子供たちをめぐる問題が深刻化する中で、家庭や学校、地域社会は何を求められているのか−−。

 財団法人・公共政策調査会と警察大学校警察政策研究センターは平成11年9月、「子供の躾(しつけ)を考える」をテーマに懸賞論文(警察庁、読売新聞社後援)を募集し、このほど入選作が決まりました(選考結果の詳細は読売新聞平成12年1月11日付け朝刊で発表されました)。

 最優秀賞作品に選ばれた佐谷力さん(大阪府立松原高校教諭)の論文全文を紹介します。

◆懸賞論文「子供の躾を考える」

【最優秀賞】
「家庭での躾に活かすカウンセリングの考え方」
 大阪府立松原高校教諭 佐谷 力

○子供たちの現状から

 小学校の先生の「生活指導研修」に招かれて、そこで耳にするのは、入学してくる1年生の質が変わってきたということです。新1年生の最初の授業で、じっと席に着いていられないでウロウロ歩き回る子が何人もいるとか、好奇心一杯で先生に注目するどころか気が散って集中できないとか、すでに学ぶことに飽きている疲れているように見える子がいるなどという話を聞きます。

 高校の現場でよく報告されるのが、子供っぽい生徒が増えてきたということです。高校生になったら普通身につけているはずのマナーや落ち着きや善悪の判断がない生徒が目に付くと言われます。いわゆる進学校の生徒でもそういう報告がされています。当然、そういう傾向は大学にも続いていくようです。マスコミなどで、大学の講義中の学生の私語がひどくなってきたという話が伝えられています。講義中に携帯電話で話す学生までいる始末だといいます。

 こういう現状に目を向けると、現代の子供たちの「して良いことと悪いことの区別があいまい」「辛いことに耐える力、我慢する力が乏しい」姿が浮かび上がってきます。それともう一つ、「自分の不満や怒りをうまく言葉で表現できないため、解消や解決の手段を見つけられず、ある一定の限度を超えたときに一度に感情を爆発させてしまう」ということが付け加えられます。いわゆる「キレた状態」になってしまう傾向です。

 このような「基本的なルールが身に付いていない」「他人との良好な関係やコミュニケーションを創造する能力が低い」ということについては、核家族化や地域社会のつながりの希薄化が大いに影響しているのは明らかです。核家族化が進んで家族の人数が減り、人間関係を調整したり細かいコミュニケーションをとる機会が少なくなっています。同居する人間の数が減ると、そこに必要とされる共同のルールも少なくなります。又、地域社会でのつながりが弱くなり、子供たちの異年齢集団による遊びがなくなりました。集団の中でのルールや役割を経験したり、他人とのつきあいの第一歩の機会を失ったことになります。又、隣や近所の大人から声をかけられたり注意されることもなくなり「良いこと悪いこと」の基準が各家庭により大きなバラつきを持つこととなりました。

 当然、各家庭においてはそれらの問題を意識した「子育て」や「躾」がなされるべきでしたが、それが出来てはいません。以下では、親の子供とのかかわりに問題点を絞って考えてみたいと思います。

○親の姿勢の問題点

 自分勝手で他人の気持ちが分からないという子供たちの様子からは、親に甘やかされて育ったというイメージがあります。確かに物質的には、大多数の子供たちが以前と比較にならないほどの物を与えられています。食べ物・持ち物から金銭まで、実に多くの自分の自由になる物を子供たちは簡単に手に入れています。何か努力したり、我慢したり待ったりすることなく、欲しい物が簡単に与えられることが多いのです。「我慢する、耐える」力が育つはずがありません。又、簡単に手にはいるから執着心がない、愛着心もないから大切にしない、なくしても必死で探さない、そういう使い捨て気分が子供たちの心の中にあります。

 しかし、子供が本当に潤沢に与えられるべき物は、物質的な物ではなくて、精神的なものです。それは、例えば「自分の子供として全てを受けとめる思い」とか、「子供のために費やされる時間」とかいうようなものです。それらは、親から不十分にしか与えられていないように感じます。

 そういう意味で子供たちは「甘やかされている」が「大切にはされていない」と言えます。親が自分の都合や楽しみを優先させて子供を放り出していたり、虐待傾向の増加さえ指摘されています。子供としての自分の存在を受け入れられ尊重されていると感じられない子供の心には、安定感がありません。常に「不安」と「緊張」がつきまといます。それが、子供たちの情緒不安やいらだちや集中力のなさにもつながっています。

 親の子供に対する躾の基本は「愛情」と「忍耐」だと思います。躾は親の勝手な都合に子供を無理に合わさせるためにするものではありません。深夜のディスコに連れて行った幼い子が、眠くてむずかるのを叱っているのは躾ではありません。躾は親のイライラや不満を子供にぶつけるものではありません。それは虐待です。いろいろなルールを守ること他人を思いやることを教えるのは、子供が社会生活の中で困ったり排除されたりしないようにという親心です。そこには親としての「愛情」があります。それで子供も「自分のために教えてくれている」と実感できます。

 それでも子供が幼ければ幼いほど、簡単に躾が身に付くことはありません。何度も繰り返し、時間をかけて教えていく「忍耐」が必要です。暴力を振るわず、言葉で表現するという姿勢を、身を以て示すことにもなります。

○子供へのかかわり方

 私は大阪府立の高校2校で20年間、教育相談係として問題を抱えた親子への支援に取り組んできました。問題の根本にある親の姿勢の誤りが「無責任な放任」であったり「過保護・過干渉」であったり、様々なケースがありました。それでも、全ての親へのアドバイスの基本にしてきたのが、カウンセリングの考え方です。それは躾の問題においても同様です。規制や強制という意味合いの強い躾と受容と共感というカウンセリングとは一見異質なもののように感じられますが、両方の根底に流れるのは「愛情」と「忍耐」なのです。そして、ルールや思いやりを定着させられる精神の土壌を作り上げるためにカウンセリングの考え方が有効なのです。

 それで、カウンセリングの考え方をベースにした「子供とのつきあい方、躾についての考え方」を提案してみたいと思います。以下にそれをまとめてみます。

○躾に活かすカウンセリングマインド

1<躾の前提として共感性を育てる>
 共感というのはカウンセリングの基本です。しかし、カウンセラーでなくても共感性豊かな人はたくさんいます。共感性の高い人は他人の思いを自分のことのように感じることのできる人です。それは、他人の悲しみや痛みを想像し共有できるということでもあります。

 そのため、共感性の高い人は他人の物を盗ったり傷つけたり差別したりということのできにくい人だと言えます。物を失った人の悲しみや傷ついた人の痛みを自分のことのように感じ、それを想像することができるからです。

 他人を傷つけたりすることを避けようという心の働きは、傷ついた人の痛みや怒りやその家族の悲しみが想像でき、さらにそれを感じる自分の心の痛みやそのことを知った自分の周囲の人々の悲しみまでを、経験的に感じるところからくるものです。それを感じることのできない人には、「人を傷つけたら、やり返されるよ」「人を傷つけたら、罪になるよ」という報復への恐れや法律で、行動を束縛していくことが必要になります。しかし、理屈や法律だけで束縛しているならば、「誰にも見つからない」と本人が思い込んだときの歯止めにはなりません。ところが、共感性は、どのような状況においても攻撃性や利己主義の歯止めになります。 子供には、「人を傷つけるのは悪いことだ」と理屈で教えるよりも、「傷つけられた人の気持ちになれる」共感性を育てることの方がまず大切です。

 一般的に躾の目的は、共同生活のルールやマナーを教え、社会生活に適応させていくことです。つまり、「人の迷惑にならない、決まりを破らない」態度を身につけさせることです。それには、この共感性を育てておくことが前提になってきます。

 それでは、子供の共感性はどのようにすれば育つのでしょうか。共感性というのは観察学習によって身につくものだと言われています。自分の身近な人が共感性を持って生活している姿を見て、それを自分の行動の中に取り入れるのです。まさしく、見て学ぶ、「子は親の鏡」という部分です。その中にも、二つの側面があります。

 一つは、親が自分に共感してくれているという経験です。

 乳児の頃、不快で泣いていればそれを理解して快適な状態にしてくれたという信頼感の芽生えから始まり、幼児の頃に十分に言葉で伝え切れない自分の気持ちを受け止め理解してくれたという体験、そして成長に従い様々な形でぶつかる問題や悩みでつらい思いをしている自分の痛みを理解してもらえたという満足、それらが積み重なって子供の中に共感性を育てていきます。

 子供の共感性を育てるために必要なもう一つは、親自身が小さな生き物の命を慈しみ、隣近所の不幸に心を痛め、テレビなどで知る遠方の地の災害などに対しても悲しみと同情を持つ姿を見せていることです。これらの姿を子供は文字通り「見習う」のです。親が小さな生き物や動物の命をどう扱うのか、それらと金銭やその他の欲望とどちらに比重を置くのか、また他人の不幸にまず好奇心を持つのか同情心を抱くのか、それらについての親の姿を、子供は自分の行動の中に取り入れていきます。

 以上の二つの側面を満たされた子供が共感性豊かに育つのです。そういう子供が簡単に人の心を踏みにじったり、生命を奪ったりできるはずがありません。そして、また自分も共感性豊かな子供を育てることができるのです。

2<躾を定着させる子供の心のエネルギーを養う>
 躾というのは、子供にとって「我慢や忍耐」や「苦痛」であることを強いる要素があります。それで、子供も成長するにつれて、誘惑や怠惰に負けて躾の縛りから逃れようとする思いが芽生えてきます。そこで、そういう誘惑に負けない心のエネルギーを養っておく必要があります。

 カウンセリングにおいてクライエントにエネルギーを与えるのは、保証や受容です。それは、「大丈夫です」とか「そのままでいいのです」「ここにいていいです」「また来て下さい」という姿勢です。 子育てにおいての保証というのは、子供をまず肯定的に見ることでしょう。肯定的に見るというのは、「子供の成長する力を信じる」ということです。「おまえにはそんなことはできない」「おまえはだめだ」という否定的な接し方をすると、子供は自信も意欲も失っていきます。そして、自己否定や攻撃性が強くなっていきます。

 子供の成長する力を信じる以上、励ましと期待はもちろん必要ですが、子供の実際の姿や能力を超えた過度な期待は逆効果となります。過度な期待は、いつかそれに応え切れないことに子供が気づきます。その時、子供にとってそのことが「親の期待を裏切った」という罪の意識となったり、「期待に応えられない自分がここにいていいのだろうか」という不安になったりもします。さらに、「生きていていいのか」という存在の不安にまでなっていくことさえあります。

 保証というのは、「期待に応えてくれるから必要なお前なのではなく、お前の存在そのものが大切なのだ」という思いを子供に伝えてあげることです。それは「ここにいていい」という安心を与えることでもあります。

 子供にとって「自分は不必要な存在なのではないか」という不安は大変つらいものです。よく、子供にも家事を分担させようとか家庭での役割を与えようと言われるのは、何か家の中での役割を担っているという意識が「子供に自分の存在意義を形で実感させることの一つ」であるからです。

 自分の存在が肯定されている、自分が何かの役に立っていると感じることは、子供に大きなエネルギーを与えます。それはいろいろなことに挑戦する気力にもつながるし、誘惑や怠けに抵抗する力にもなります。肯定感のない子供は、すぐに「どうせ自分なんか・・・」「何の値打ちもない・・・」という発想に逃げ込み、悪の誘惑に負けてしまいます。そして、自分を肯定できない子供は、他人の権利や心情も肯定的に見ることが出来ません。そういう状態では、しつけられたことが定着していくことを望めません。

3<価値感や都合の押しつけと躾は違う>
 まず家族の一員としてのルールを教えることから、社会の一員としてのルールやマナー、人権や生命の尊重まで、躾として具体的に子供に身につけさせておくべきことはたくさんあります。それらの多くは、子供にとって我慢を強制されることであったりして、決して楽しいものではありません。しかし、それに耐えて身につけようとする心の働きを助けるのが、前述した共感性やエネルギーであり親への信頼感です。

 但し、ここでいうルールやマナーなどは社会通念としてある程度統一されたものを頭の中にイメージしておかなければなりません。各家庭によって内容が大きく違って、親の好き嫌いや都合や趣味や価値観を押しつけるものであってはなりません。特に、子供の成長と共に自分とは違う独立した人格であることを認め、一方的に親の価値観を押しつけないことは必要です。

 例えば、私立中学を受験するため小学校から塾に通って余裕のない生活をしている子供もいます。これは、大抵の場合親の側からの「私立中学=将来の幸福」という価値観によるものです。もちろん「子供の将来の幸福を願う親心」も半分はあるのでしょうが、残りの半分は「自分たちのできなかったことを果たしたいという代償心理」や「自分たちの見栄」という部分もあると思います。そういうことを自覚して、「お金もかかっている」と恩に着せないことと、子供に逃げ道を作っておくことが必要です。

 逃げ道を作っておくというのは、「私立中学に入れなければ幸福になれない」「一流大学に進めなければ幸福になれない」という価値感を子供の中に刷り込んでしまわないことです。それを刷り込まれてしまって受験を失敗し公立中学に通うことになった子供は悲劇です。中学生にして、自分は幸福のレールから外れてしまっているという挫折感を持って生活していかねばなりません。また、幸いにして合格したとしても、もちろん内部で順位は1番から最下位まであるのです。学習についていけないと感じたときに、「もうこれで幸福の道はない。人生は終わった」と感じたとしたらそれも悲劇です。

 「勉強することで自分の人生の選択の幅を広げるのだ」という教えはいいとしても、「勉強ができなければ幸福にはなれない」という教えは、子供が挫折したり限界を感じたときの救いをなくさせてしまいます。

 その他、子供の人生の幅を狭いものにしてしまうような価値観の押しつけは決して子供の幸福にはつながりません。

4<躾の内容について>
 躾の具体的な内容に関しては、これまで述べたようにマナー的なことから生活上のルールや約束、役割分担まで、子供の成長発達に応じて大変幅広いものが考えられます。しかし、ここでは次の三つに絞ってまとめておきます。

 まず「食べること」。これについては、食べ残しをしない・食べ物を粗末に扱わないことをしっかり教えます。調味料などについても必要な分量だけ出して、無駄に大量に残さない。出されたものをきれいに食べる。これらは、ものを大切に扱う、無駄をしないという姿勢につながるものです。それを生活の基本である「食べる」機会に身につけさせます。

 次に「寝ること」。子供の年齢に応じた就寝時間を決め、それを守らせます。学校に行くようになって、朝起きられないで遅刻する子供は必ず夜更かしをしています。そこから生活のリズムが乱れ、体調も心のバランスも崩れていくことが多いのです。基本的生活習慣の第一歩は、十分に睡眠がとれるような決まった時間に寝ることです。そして、そのことは時間を守る・約束を守るという姿勢につながるものです。

 三つめは、「話すこと」。自分の体験したこと、感じたことを言葉にして話す力を育てます。そのために、子供の一日にあったことをゆっくり聞いてあげる時間を持ちます。聞いてもらえる体験から子供は話す力を身につけていきます。始めはその日の出来事から、次第に自分の心の動きや感情まで言葉で表現できるようになります。それは言葉に出来ない怒りや憎しみを抱えて爆発することを防ぐことにもつながります。もちろん、「話すこと」には「聞くこと」もついてきます。自分の話をじっくり聞いてもらうと同時に、相手の話もじっくり聞いてあげることの大切さも教えます。そして、成長に応じて正しい言葉使い、話し方のマナーも教えます。

5<叱り方を考える>
 叱るよりもほめること、欠点をなくすより長所を伸ばすこと、そう心がけるのが大切ですが、わかっていてもできないのが親子関係です。本気で叱るべきときはたくさんありますし、本気で怒る・叱る・説教する・話してきかせることが必要です。また感情的になるなと言われても「今までこれだけ面倒みてきたのに」とか「これだけ言ってきたのに」とか「自分の子がどうして」等々、怒りが込み上げてきて爆発してしまう気持ちもわかります。普段から子供としっかり向き合っているのならば、それもまた親子関係の一つと思えます。

 それでは叱るときの留意点について考えてみましょう。

 まず、殴ったり蹴ったりの暴力を使わないことです。

 暴力というのは麻薬のようなもので、一度使い出すと止まらなくなります。初めに子供が何か悪いことをして一回殴ったとします。次にもう少し悪いことをしたら、二回殴ることになります。子供は成長とともに起こす事件や問題や失敗も当然大きくなっていきますから、それに合わせて暴力も拡大していかねばなりません。そして、とうとうとんでもなく悪いと親が判断する行為をしてきたとき(例えば一方的に人を傷つけてきたとか)すでに、親の暴力が限界に近い所へ達しているならば、それ以上親は何をできるのでしょう。他人や専門機関に頼るしかないでしょう。

 また、暴力的な子供は必ず親から暴力を受けて育ってきています。怒りの感情の爆発させ方も、子供は親をモデルにしています。例えば、不登校などから家庭内暴力になる子供の場合も、やはり過去に親から暴力を受けていることがほとんどです。親から直接暴力を受けたことがないのに家庭内暴力になっているケースでは、子供は家具や物を壊して暴れているだけで直接親を殴ったりはしていないものです。

 親の常習的なあるいは気分次第の気紛れな暴力から、子供の反省や意欲や向上心を生むことはありません。生み出すのは、恐怖や萎縮や反抗、憎悪だけです。親の暴力への憎悪や不満は、自分より弱い者への攻撃となって現れてくることが多いのです。そして、暴力的に育てられた子供はまた自分の子供を暴力的に育ててしまいます。

 それから、叱る時に気をつけたいのは、「具体的に、短く」叱るということです。「何が悪いのか」をはっきり指摘して、どうしてそうなってしまったのかという経過や心情を問いかけます。そして、どうするべきだったのかという答を具体的に示します。その理由や必要性も説明します。但し、理屈でなく「とにかく悪い」ということがあるということを教えなければならないときもあります。それも親の真剣な態度や言葉によって通じるものです。それでも、子供はしたことや態度に対して「キレ」て殴るのではなく、「悪いことは悪い」という姿勢で言葉を手段にして迫らなければなりません。ついかっとして「キレ」るという親の態度を、そのまま子供に学習させてはいけません。

6<躾は両親の共同作業>
 カウンセラーも、いつも人の悩みを受け止めていると疲れてきます。また、自分自身の対応に悩んだり不安を感じることもあります。そういう時に、カウンセラーの話を聴き、助言もしてくれるのがスーパーバイザーです。

 家庭での躾において親もスーパーバイザーを持てればどんなに精神的に楽かと思います。かつては、近所のもう子育てを終えたおばさんが若い親にとってのスーパーバイザーであったり、家庭の中でも祖父母がその役を果たしていたりしていました。しかし、核家族化と近隣の人間関係の稀薄化から、子育てに関して親は本やマスコミからの情報に振り回されつつ孤独に悩むという状態を余儀なくされています。

 そんな状況の中で、父親が躾に参加せず母親一人に押しつけるならば、母親は孤独感から過保護になるか、不安感からヒステリックになるか、無力感から無気力で甘くなるか、いずれにしてもよい結果を望むのは難しくなるでしょう。たとえ父親が仕事に忙しく直接子供と触れ合う機会が少ない場合でも、せめて母親の育児の相談役として十分に、共感と受容と関心を持って日々の話を聴く必要があります。そして、それはただ話を聴いてもらえば気がすむという問題でない場合も多く、共に悩み共に考えるべきことがたくさんあるはずです。

 望ましいのは、父親と母親が二人で子供に向き合い、触れ合って、躾をしていくことです。子育てや子供の状態について常に話し合い、「子供をどう育てたいか」「何を守らせたいか」などについて二人の考えを一致させていく必要があります。

 よく、父親と母親の態度がバラバラではいけないと言われますが、それは躾の考え方や家庭のルールについて一致させておかねばならないということです。父親が激しく叱っているときには母親も一緒に激しく叱らねばならない、ということではありません。核家族において、両親が一緒に厳しく迫れば、子供には逃げ道や救いがありません。一方が厳しく激しく子供に迫っているときに、もう一方が子供の聴き役に回ったりタイミングを見て助け舟を出したり、事態を治める方向に動くのも大切です。そして、その展開や今後の方針について、後で両親が二人でゆっくり話し合うことが重要なのです。子供に対する見方が違うところもある、それぞれ異なった環境で育った夫婦が、それぞれの経験や考えを出し合っていくことで子育ての幅を広げることになります。そのような夫婦の関係ができていれば、それぞれがお互いにとってのスーパーバイザーとなれるのです。

 子育ては夫婦の共同作業です。それをまず両親がしっかりと自覚していることが重要です。(終わり)


◎今回の入選作品を収めた論文集が主催者の(財)公共政策調査会から後日、刊行されます。

お問い合わせは同財団(電話03−3265−6201)まで。

フロンティアみはら:http://www.6348.co.jp/frontier/